第182話 寄り添う心


こんにちはっ



ゆうなです!





先週は私の誕生日がありまして、恐れ多くも



多くのそんないリスナーさんからお祝いの言葉を頂きました…!



ありがとうございますっ



なかなか遠出しにくいこの頃ですので、みなさんが少しでも



気分転換になるような記事を、これからも書けたらなと思います。





さて前回に問題提起をした、琉球王国はどのようにして



沖縄県になったのか…というお話し。



薩摩藩に侵攻され首里城を明け渡し、武力で強制的に人々を



従わせていったのだと私は思っていました。



もちろん、そういう面もあったのだと思いますが中には



しっかり県民の意見に寄り添っていた本土からの役人もいました。





今回は『齋藤用之助』という人物を紹介したいです。



これまで沖縄出身の人物をよく取り上げていましたが、この方は



佐賀藩の出身で沖縄県が設置された際、県令に任命された



鍋島直彬と共に沖縄に渡った人物です。





沖縄の政治、学校教育、農業や水産、土木事業を学ばせるため



県民を本土へ派遣したり、港を整備するなど多くの業績をあげています。



その中でも大きな出来事は



硫黄鳥島に住む住民全員を久米島へ移動させたことです。



明治36年頃、火山島である硫黄鳥島が噴火し危険な状態でした。



作物も育たない、教育もままならないので住民の多くは移動に賛成し、



国は移動のための軍艦も用意していました。





しかし先祖を残して島を出ることは出来ない等の意見で



反発する住民も多くいたのです。



ここで強制的に住民を移動させる事も出来たと思います。



ですが齋藤用之助は、



「多数決ではだめだ。故郷を捨てる人々の心に寄り添わなくては」



と、反対意見を示す住民一人一人を訪ねて説得に行きます。



ただ国の方針を伝えるだけではなく、



県民から問題を聞き、一つずつ対策をとりました。





先祖の墓石ごと移動したり、家は国負担で補助金も支給され



移動先の久米島に新しく拝所を置いたり…。



硫黄鳥島は火山島のため温泉も多かったので、久米島に銭湯を



多く設置したという話もあります。





また、本土の人はほとんど食べないヤギ汁が好きで



県民と話す時もすぐに打ち解けたそうです。





こうして、硫黄鳥島の噴火が始まって10ヶ月後、



住民全員が納得する形で、移動が実現されました。



ちなみに、日露戦争が始まる約一年前の出来事です。





沖縄のために力を尽くした人物は、きっと齋藤用之助以外にも



多くいると思います。これからはそういった視点でも沖縄の歴史を



感じられるようにしていきたいですね。





それでは、



ご意見ご感想など



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こちらまで!



コメントも嬉しいです!



それでは皆様、また来週……







文)そんないプロジェクト ゆうな

1 Comment

  1. てつっぴどぅ より:
    『齋藤用之助』というキーワードでググってみましたが、いっぱい出てきました。
    いくつかのサイトに書かれている内容を読みましたが、住民に寄り添いながらも
    強いリーダーシップを発揮し、この人の言うことならついて行こうと思えるような
    感じだったのかなぁと想像しました。
    沖縄県立博物館で「激動の明治・大正の沖縄 第11代齋藤用之助の足跡から」
    という展覧会が開催されているようですね。

    今週の写真もキレイで癒されます。海なし県で育った人間には海は憧れなので…。

    ではでは、来週の配信も楽しみにしています。

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